2019年03月03日

景教資料

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201411月3日、春日井市柏井町7‐2‐6の本部に建った景教碑模刻碑の上部の拓本



これは高野山の景教碑の正面の文字です。

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これは高野山の景教碑の側面の文字です。
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これは高野山の左が景教碑、右が碑の寄贈者のゴードン女史の墓碑です。
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これは高野山のゴードン女史、寄贈の景教碑の上部の拡大写真です。
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2014年11月19日

国際景教研究大会・日本講演


景教とは                               川口一彦記

A、景教とは

 景教(景の意味が大きな光から、世界の光なるイエスのこと)とはイエスの教えのことで、メシアの救いの福音を全世界に伝えるために、特に一世紀以降、ユダヤからシリア、ペルシア、中央アジア、唐の時代の中国へと東方に向けて宣教し活躍した群れを言う。

紀元635年、唐の都長安に景教の初代宣教師や多くの指導者たちが入り、イエス・メシアの福音と教えを中国語に翻訳して皇帝に伝えた結果、中国全土に会堂(大秦寺と呼ばれた)が建設された。公的に入る以前から景教徒商人たちが往来していたことは明らかである。

彼らは自分たちがペルシアから来唐したことで東方景衆景教と名のった。この名称は781年に長安大秦寺の景教会堂に建った大秦景教流行中国碑(以下、景教碑)に刻まれている。

B、景教の源流

景教は現在のイラクやイランの西アジアから始まった。BC2000年頃、西アジアのカルデア(イラクの別称)で生まれ育った信仰の人アブラハムが全能の神の声を聞いて従ったことに始まる。この地ではアブラハムがサラの死後に結婚した時に生れた子孫たちが暮らすところでもあり、古くから関係があった。

 また紀元前の旧約聖書の時代、ペルシア帝国が支配していた地域に多くのユダヤ人が住んでおり、インド南部のコチンにはソロモンの時代からの会堂があり、全世界にユダヤ人は離散していた。離散の民たちはメシアが生れるまで、エルサレムへの巡礼をしていた。

ギリシア帝国や紀元後のローマ帝国時代には聖地巡礼が盛んとなり、メシアであるイエスがユダヤで生れた時、東方から星に先導されてメシアを礼拝しに来た博士たちはそのような背景のもとにあったと言えよう。なぜなら星に先導された博士たちは、メシアが降誕したとはっきり認識して黄金、乳香、没薬を用意したこと、博士たちはマリアたちから聞いたイエスこそ待望のメシアであることを地元で宣伝したことから、ますますイエスを訪ねる者が増えていったと考えられる。それゆえにイスラエルから東方の方角のペルシアやアラビアを含めた地域にメシアニックが増えていった。聖霊降臨の時には、大半が東方地域からの巡礼者で、マルコ福音書の最終章には福音が「東の果てから西の果てまで」(新改訳聖書)送り届けたとあるのも理解できる。つまりメシアの昇天後には東方地域にくまなく福音が伝えられ、シルクロードを利用してさらに東方に拡大していった。



紀元後の東方地域

35頃~ トマスや他の弟子たちが東方に宣教開始  

100頃 エデッサに教会建設

200頃 エデッサに神学校建設  

320頃 ニシビスに神学校建設

新刊景教



2015117日に春日井市文化財友の会主催の会員による講演の依頼を受け、多くのご来場者のもと石碑の題額文字の謎について発表しました。
 

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CIMG6359景教碑と話をする川口牧師

11月3日、日本景教研究会本部に西安の景教碑とそっくりの模刻碑が建ちました。




2013年11月28日

日本景教研究会本部へのアクセス

本部
 〒486-0927春日井市柏井町7-2-6)
JR中央線「勝川駅」南口に出られ、東に徒歩約15分
本部の連絡先☎090-3955-7955

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